萩原堤の道しるべ



 鉄道が明治41年(1908)に八代―人吉間、翌年人吉ー吉松間が開通して、鹿児島本線として八代ー鹿児島間が全線開通した。それまでは八代市から徒歩で人吉方面へ行ていた。八代から球磨川をさかのぼる分かれ道にあるのが、この「道しるべ」である。しかし、球磨川沿いは急流が多く水量も豊富であったので、その岸辺に道を造ることが困難で、かなりの部分は山間部を通る道ではなかったかと思われる。球磨村の各集落を結ぶ山道が網目状にあることからも想像できる。また、鉄道以前の交通路といえば、今の芦北町までは船があり、そこからは峠を越えることなく球磨川沿いに出て、その左岸をさかのぼっていくのが通常であった。そこも、途中に「清正公岩」という岩山があり、熊本城主清正公が人吉を攻めに行って、その険しさにあきらめて引き返したという話がある。
 この道しるべは慶応2年(1866)に建てられている。直径60cmの円柱である。詳細は、説明書きが掲示されているので参照してほしい。





大地図



小地図


令和2年道しるべ



昔の写真



説明の板



説明













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